蓮の希望




「…っ。」
「な! なにをするんです!」

祥太郎は慌てて駆け上がり、もう一度そろばんを振り上げた老人と蓮の間に割って入った。
老人は憤怒の表情を隠そうともせずに祥太郎を睨んでいたが、やがて忌々しそうにそろばんを下ろした。祥太郎は、それが元通り文机の上にきちんと並べられるのを確認して、蓮を振り返った。

蓮は畳に片手を付いて、よろめく体を支えていた。今一方の手は、こめかみの辺りを覆っている。
その指の間から血が流れて、真っ白い蓮の制服の上に染みを作った。

「! 血が!」
「なんてことありません、このくらい…。」
「でも…!」
「蓮、もういい。下がれ。当分反省していろ。」
「はい。…申し訳ありませんでした。」

祥太郎は唖然としてそのやり取りを聞いていた。
蓮はこの老人のことを会長としか呼ばないが、面影からもこの二人が血縁関係であることが分かる。それが、なんと言う砂を噛むような会話を交わしているのだろう。

蓮は静かに立ち上がり、たたらを踏んだ。祥太郎ははじけるように立って蓮を支えた。
しかし、祥太郎にとって蓮は上背がありすぎて、単に抱きついているだけにしか見えない。

「あ…眼鏡曲がっちゃった…。」
「のんきなこと言ってないで…!」

蓮が視界を確保するように眼鏡を外すと、こめかみからはまだ新たな血が流れている。祥太郎は、歯軋りしたくなるような悔しさをこめて老人を睨んだ。
だが、老人は帳簿に目を落としたまま、こちらをちらりと見ることもしなかった。



「おでこだから、ちょっと大げさに血が出るだけですよ。本当にたいしたことないんです。」

蓮の言葉の通り、傷自体はほんの小さなものだった。しばらく押さえると出血も治まり、蓮はその上に慣れた手つきで傷テープを貼った。

「驚かせちゃって申し訳ありませんでした。会長、ちょっと虫の居所が悪かったみたいで…。」
「会長って言うけど、あれは君のおじいさんでしょう? あんまりじゃない。」

祥太郎が憤然と言うと、蓮は困ったように笑った。

「ナツメもそんなふうに言うんですけど、僕は祖父と言えば会長しか知らないし、なにが普通で、なにが普通じゃないのか分かりません。僕にとっての会長は、良い祖父なんですよ。」
「だっていきなりそろばんで殴るなんて…!」

祥太郎の憤りはちっとも納まらない。
蓮はフレームの曲がった眼鏡をあきらめて、予備らしい眼鏡をかけた。

「祖父は、戦争でガタガタになったお店の経営を立て直して、更に規模を広げたやり手で、僕はとても尊敬しているんです。
ただ、祖父は戦前のほんの子供のころから、丁稚として他のお店に修行に出されたりしていた人で、苦労やしごきが美徳と思っているところがあるんです。祖父にしたら、自分の受けてきた教育をそのまま伝えているだけなんです。
祖父が子供のころは、こんな程度のしごきじゃなかったそうですよ。」
「それにしたって…!」
「先生…、僕のことなんかで泣かないでくださいよ。」

蓮の細い指が伸びてきて、頬を撫でられた。
そこで初めて祥太郎は、自分が涙をにじませていることを知った。

「先生は、どんなにからかっても苛めても、決して弱音を吐かない人だって聞いたけど、そうでもないんですね。」
「だって…! 悔しいんだもん、僕の生徒が目の前で血が出るほど殴られて、何にもできないなんて…っ!」
「…ナツメが先生を好きなわけが分かります。」

蓮は優しい笑みを浮かべると、こめかみの傷テープにそっと触れた。

「痛い?」
「いいえ、もう大丈夫です。
ナツメもよく、こうして心配してくれました。」

蓮は遠い目をして、小さく息を付いた。



「僕たちが小さなころは、うちとナツメのうちとの間はもっと親密で、家族ぐるみのお付き合いをしていたんです。両家の仕事柄も、その助けになっていたと思います。

日吉の神社は、なにか行事があると言うと、必ずうちの商品を大きく取り扱ってくれていたようです。
まだ小さなナツメが、祖父や父が見立てた反物で作った狩衣を着ているのを見ると、なんともいえない誇らしい気分になったことを覚えてます。

でも、僕が中学生になったころ、神社でナツメと遊んでいた姉が、腕の骨を折る怪我をしてしまったことがあったんです。それと同時ぐらいに、なにか商品の受け渡しに不備があったらしくて、先方からのご注文がふっつり途絶えてしまったんです。

それ以来、うちと日吉神社とは絶縁状態なんです。詳しいことは僕も知らされていませんが、お互いの祖父が、お互いのミスをあげつらってこじれてしまったんですね。
祖父同士も、本当に仲のよいお友達だったのに…多分些細なことが原因だと思うんですが、おかげで僕とナツメの間もおかしくなっちゃいました。
僕は、元通り、ナツメと仲良くしたいんですけど。」

蓮は肩を竦めて小さく笑った。

「どうも僕、ナツメに嫌われちゃってるみたいだし。」
「そ、そんなぁ。」
「いずれにしろ、しばらく生徒会の方に専念できそうですよ、先生。」
「え…、だってお店が忙しいんじゃ…?」
「会長がしばらく反省していろって言われましたから、僕は当分お払い箱です。」

祥太郎は思わず息を飲んだ。蓮は淡々と語るが、ずいぶん厳しい処置だ。
帰りのタクシーの中で、頬を染めて自分の立場を誇らしげに教えてくれた蓮を思い出すと、どれほど悔しいことかと思わざるを得ない。

「そんなの…厳しすぎるよ。僕からもう一度おじいさんに言って、お許しを…。」
「祖父は前言撤回なんて、絶対にしません。
でも大丈夫です。僕はこれしきのことで諦めるつもりは毛頭ないし、それに最近は、僕の見立てじゃなくちゃってお客様も、少しずつ増えてきているんですよ。」

ありがたいことです、と蓮はいもしない顧客に向かって頭を下げた。

「………頑張るねえ、松本君は…。」
「目標があるんです。」

蓮は優しげな瞳をきらめかせた。

「ナツメは白鳳の高等部を出たら、神学系の大学へ行って修行に行くそうです。多分、あと10年しないうちに、立派な神主さんになると思います。ナツメの神事の舞は、本当にきれいなんですよ。
だから僕も、10年以内に、立派にお店を任せられる経営者になっていたいんです。
ナツメと胸を張って肩を並べられるように。そうして、うちと日吉との関係を修復して、以前のように強い結びつきを作り上げていきたい…それが僕の目標です。」

祥太郎は目を見張った。希望に瞳をきらめかせる蓮は、とてもきれいだった。

「だからまず、ナツメと仲直りしないと。」
「僕は…ナツメ君は松本君のこと、嫌ってるとは思えないんだけど。」

確信を込めて言ったのに、蓮はなんともさびしそうに微笑んだだけだった。





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